学校と正常性バイアス 目の前の危機 直視を と言うことで、組織や団体に長くいるとどうしても危機があってもリスクがあっても他人事として考えることが多くなって来るので注意が必要であると言う事を言っている

「正常性バイアス」という言葉が時々紙面に載るようになった。

 

自然災害や事故、事件に遭遇したときに、それを日常生活の延長上の「よくある出来事」

 

と解釈して、リスクを過小評価する心的傾向のことである。

 

顕著な事例としては2011年の東日本大震災のときの石巻市立大川小学校の事件や14年の韓国のセウォル号事件がある。

 

大川小学校では、「ここにいたら死ぬ」と裏山に逃げ出した生徒たちを教師が引き戻し、セウォル号では「船室から出るな」

 

というアナウンスに従った生徒らが船が傾き出した後も避難行動を自制し、結果的に多くの死者を出した。

「枠内」での悲劇

 

いずれも「学校」という制度の枠内で起きた事件や事故である。こういう問題については、「責任者は誰だ」

 

という他責的な問いについ引きずられがちだけれど、それ以上に「学校というのは正常性バイアスが過剰になる場所だ」

 

という基礎的な事実についての理解を共有する方が重要なのではないかと思う。

 

学校というのはシステムを脅かすような危機的事態が生じた場合でも、「よくある出来事だ。たいしたことはない。

 

子どもたちの安全は守られている」という態度がつい支配的になる場所である。

 

「危険ではないか」という懸念を「安全であってほしい」という願望が常に凌駕(りょうが)する、そういう場所なのである。

制度が抱える業

 

それは学校が「どんなことがあっても維持されなければならない、人間集団にとって必須の制度」だからである。

 

戦争や天変地異や世界的大流行(パンデミック)で社会秩序が崩壊しても、どんな難民キャンプでも、学校教育はすぐに復活する。

 

日々の衣食が足りれば、誰かが「学校を始めよう」と言い出す。勝手気ままに遊んでいる子どもたちを無理矢理集めて、

 

青空の下でも、黒板も机もないところでも、大人たちは子どもの教育に取りかかる。

 

それは学校はあらゆる危機を生き延びて再生しなければならない制度だからである。

 

子どもたちが生き延びて未来を支えるための知恵と力を育てる場だからである。

 

だが、そのことが逆に制度の存立を脅かすほどのリスクを過小評価する態度を生み出す、ということはないのだろうか。

 

「教師はどんなことがあっても子どもの前で浮足立ってはいけない」というルールが恐らく多くの教師には無意識のうちに内面化されている。

 

だから、「こんな状態で学校教育なんかできるのか?」という周囲の不安に対して、つい「大丈夫です。できます」と答えてしまう。

 

それは学校制度の抱える「業」なのだと思う。いじめ自殺の問題も、不登校の問題も、恐らく根はそこにつながっている。

 

私はことの良否を言っているのではない。学校とは「そういうものだ」ということを勘定に入れて、学校教育を扱わなければならないと言っているのである。

 

 

 

つまり農業も長くやっているとどうしても何時もの勘に頼ることが多くなり

 

それが、ある程度良い結果を出しているとそれを

 

「良い」という考え方でかたまりがちである

GAPは農業を客観的に見つめ直す事で、今までやってきた良いことはそれ以上にのばして

 

駄目な部分は即効でやり直しをする事で、業務の効率化省力化もできる。

 

GAPは考え方次第でこれからの自分の良き共となるか、自分のライバルとなるかは

 

その人の心がけ次第である

 

JGAP審査員小川逸朗

 

 

 

 

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